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ネコと哲学

日ごろの気づきを中心に書いていきます。精神疾患の構造も触れていきますが自論もかなりあります。なんらかの気づきにつながれば幸いです。

決してたどり着けない!認識?

 

 10数年前のことでしょうか、例えで書きますが、ある学び舎で、生徒さんが、その先生に食って掛かっていた場面に出くわしました。その生徒さんは、先生のことを尊敬していて大変気に入っていたのですが、その生徒があまりにも食って掛かるので、「お前は、わがままだからなあ」と優しく諭すようになだめました。すると「私のどこが一体わがままなんですかあ!!」とますますエスカレートして怒鳴り引き下がりません。「お前は、自分がわがままというのがわからないくらいわがままなんだよ」と苦笑しながら、優しく諭したとのことでした。

 どういうことを言ってわがままだと言われていたのか私は内容までは覚えていませんが、しかしこの場面そのものが、その生徒さんのわがままぶりを多分に表しています。そしてその生徒さんは自分がそう言っていながら、自分がわがままどっぷりに嵌っているまさにその現状に気づかないんです。いや気づいていても大したことではないとしているのか、もしくは、はっきりとした認識に至っていないのかもしれません。

 己が愕然とするほどのはっきりした認識にたどり着くと、人は己に立ち止まってその状況を初めて客観的に見れるようになり、そういう反応(ここでは、わがままにふるまう自分)をしてしまう自分を手放せる機会を得ます。しかしまったく己の姿に気づかず、気づいてもはっきりとは気づいていない場合は、そういう反応をしてしまう自分は同じような反応をたびたび繰り返し、その反応(あり方かもしれません)を手放せないようです。

 要は自分を認識出来ず、認識出来ないゆえに正にその認識できない状況そのものを作り出しているということですが、こういう場合に限ってのことだけだとは思えません。病識(自分が病気である認識のこと、精神科疾患で問題になるケースがしばしばあります)がないとケースというのは、こういう思考のサイクルに陥り、その認識にたどりつけないように思われます。

 

 神経症的(神経症という表記は、今では、DSM分類にてもうなされなくなりましたが)な、幼少期的な欲求がまさにそれにあたると思います。神経症的の現れとしての幼少期的な欲求は、それが叶えられるまではその欲求を引き下げることが非常に困難です。例えば、不安で不安で頓服薬をほしがってしまっている場合には、その薬を飲むことがまず先決であって、他のアドバイスや指導は聞き入れがたくなる傾向があります。まず本人とすれば、その薬をもらうことが何よりであり、当然とも思えますが、そこでいろいろ工夫して薬に頼らない方法を身に着ける意味ではいい機会ではあります。前もってそういうことを何度も指導していても、本当の意味でその指導に同意しておらず、自分のやり方でのみ対処するしかないと思ってしまっている場合は、こちらの話が本人には入っていかず、自分のやり方を通してしまいます。実際問題として、こちらが本人が本当に同意できるように指導や訓練することをしていくことが非常に重要ですが、そこまでに至っていないことが多く、やはり本人の訴えに対して本人のやり方での対処するのをこちら側(医療側)は容認するしかないということが多いです。

 ゆえに、この周りからの修正しがたい、アドバイスが通りづらい欲求は、幼少期的な要素が多分にあるように思えます。しかし、こういう自分が引くに引けない欲求を相手に訴えているときは、自分に幼少期的な欲求があるなあと、人は思うでしょうか?

 私もこの文章を書こうと思うまでは、自分が拘(こだわ)って相手に分かってほしいと思っていることがまさか、自分の幼少期的な欲求の入り混じったものだとは思いもしませんでした。最近のことですが、私の勤める病院内で、スタッフがそういうことをすれば、ある患者さんが悪化する可能性がかなりあると私が訴えて続けていたのに、それに対して相手のスタッフはあまり同意されず、相手は相手の判断で、私は私の判断で平行線でお互い譲らず言い争っていたことがあり、私は自分のやり方に強くこだわっていました。それが幼少期的な感情の現れとはなんとなく薄っすらとわかりつつも、はっきりとまでは認識できませんでした。まあ、それ故に勢いがあり、生の自分の感情からの訴えになるのですが。

 幼少期的な欲求や訴え自体が悪いというのでも全くないです。人は一体どういうものに突き動かされているのかということに、自分自身がまったく認識できずに同じことを繰り返してしまうというところが多分にあるのだと思います。それ自体(認識できないこと)がまた悪いわけでもないですが、あまりにも同じことを繰り返していて、周囲とうまくいかないなあというのであれば、それに気づくチャンスになっているのではないかと思う次第です。