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ネコと哲学

日ごろの気づきを中心に書いていきます。精神疾患の構造も触れていきますが自論もかなりあります。なんらかの気づきにつながれば幸いです。

あきらめると手放す。

 

「あきらめる」と「手放す」は、似ているような気もします。大事にしていたもの(コレクションなど)を「手放して」人にあげるときなどに、「ああ、あれはもう手放したよ」などと言います。

「手放す」は、固執していたものについて、固執するのを諦めたというニュアンスも含まれているかもしれません。しかし、完全にあきらめる、投げやりになるでもなさそうです。掴んで握りしめているものをその手の力をほどくという感じが近いと思います。

どうして、「手放す」と「あきらめる」を対比させたかというと、飲酒などの依存症ではどうなのかと思ったからです。飲酒の依存がある人で「お酒はやめたよ」というときは、投げやりさはあまり感じません。わたしは、積極的に行うのが「手放す」で、ネガティブに行うのが「あきらめる」だと思います。「あきらめた」場合は、人に宣言しないことが多いように思います。意気消沈しており人にも言う気も起きないのかもしれません。人に「あきらめたよ」と敢えて言う場合は言った本人がすっきりしている場合もあり、一概に言えませんが。

 病的な依存症にまでなってしまっていると、自分の意思では、「手放し」たり、「あきらめ」たりすることが非常に難しくなっていきます。断酒の自助グループのアルコールアノニマス⁽AA⁾の12ステップでは、冒頭の3ステップのみ見てみると、

 

1.私たちはアルコールに対して無力であり、思い通りに生きていけなくなったことを認めた。

2.自分を超えた大きな力が、私たちを健康に戻してくれると信じるようになった。

3.私たちの意志と生き方を、自分なりに理解した神の配慮にゆだねる決心をした。

 

と書かれており、自分の意志や力だけでは、どうにもならないことが伺われます。病的依存症、アルコール依存症について以下述べていきますが、

 依存症も、神経症的な要素があり、自分だけで、依存症をどうにかしようとすること自体が、すでに自分の神経症の堂々巡りのサイクルにはまっているのであり、不安症では、不安があるから考えて、考えた結果、また不安になって、また考えるというサイクルと似ています。つまり、お酒を飲みたいというのが、幼少期的願望を多分に含んであり、それを我慢しようとすると、ますます願望が強くでるようになり、お酒を飲んでしまう。飲んでしまった後、我慢しようとするが、また⁽衝動的に⁾飲みたくなるというサイクルだと思われます。お酒が入ることにより抑制する力が落ちていき、我慢が余計困難になるのですが、何度も「もうちょっと、あとこれくらい飲んだら今日はもうやめる」とうように条件付きで我慢しようとするようことが多いでしょうか。

また依存症それ自体の構造に、不安や問題に向き合うのではなく、問題直視を避けるところが含まれています。うつ症状や不安症状、不満、怒りなどの納得できない気持ちからお酒で紛らわそうとすることがよく見受けられますが、その不安やうつ症状、その時の気持ちがどこから生まれて来たのかを見ていく客観性や冷静さが十分に機能していません。飲酒が、比較的対処しやすい方法の一つになってしまっていて、その対処法自体が依存症をさらに深めているのではないかという認識まで至っていません。依存症になっていて、これはやばいというのは重々わかっていたとしても。

周りのアドバイスや指摘も、なかなか有効には受け入れられないことが多いです。お酒を飲みたい気持ちが圧倒的にまさっており、その欲求を行使まで気が済まないようです。どうにも抗しがたい欲求になっており、お酒を飲んでしまうと不安がある程度収まりますが、お酒を飲んでしまって、まずいという気持ちや不安がまたでてきても、それを紛らわすためにまた飲んでしまい、またまずいと思いつつもまた飲むという紛らわそうとする方向に進んでしまい、まさに堂々巡りの悪循環に陥り、眠くなったり、ひどいときは、意識を失ったり、考えることができなくなったりするまでその日は続きます。

 家族は、本人が飲酒を止めようと何度も試みますが、本人は自分の欲求を止められて、強い不満を感じ怒り出すことも多く飲酒下においてその気持ちを家族にぶつけてしまったり、家族は本人も含め、非常に強いストレス状態に置かれたりします。本人には不安や納得できない気持ちなどを対処することが他の方法ではあまりできなくなっており、飲酒以外では、普通に大人しかったり真面目だったりもしますが、その状況でのストレスもあるのでしょう。

 いずれにせよ悪循環に陥っており、その状況は、それを周りが最大限許容しうる範囲までか、本人が健康を害したり、事故にあったりするなど、その状況が続けることができうる限り続きます。また家族關係を失ったり金銭的に続かなくなったりする場合まで続いたり、そうなってもさらに続く場合すらあります。

 アルコール依存症(単なるアルコール依存ではなく、病的な状態のことをここでは指します)にまで至ってしまうと、自分一人の努力だけでは、どうにもならないところまで病気が進んでおり、AAの12のステップが表現しているように、援助できる方や、医療機関自助グループなど、周りの助力を得ながら、向き合う形になってくれば、かなり良くなってくるものですが、そこまでにたどり着くまでが一番重要で、大変でもあります。人間関係や家族関係や仕事など失敗したり失ったりする方も多く、そこまで生じてからやっと向き合うかどうかということも多いです。

決してたどり着けない!認識?

 

 10数年前のことでしょうか、例えで書きますが、ある学び舎で、生徒さんが、その先生に食って掛かっていた場面に出くわしました。その生徒さんは、先生のことを尊敬していて大変気に入っていたのですが、その生徒があまりにも食って掛かるので、「お前は、わがままだからなあ」と優しく諭すようになだめました。すると「私のどこが一体わがままなんですかあ!!」とますますエスカレートして怒鳴り引き下がりません。「お前は、自分がわがままというのがわからないくらいわがままなんだよ」と苦笑しながら、優しく諭したとのことでした。

 どういうことを言ってわがままだと言われていたのか私は内容までは覚えていませんが、しかしこの場面そのものが、その生徒さんのわがままぶりを多分に表しています。そしてその生徒さんは自分がそう言っていながら、自分がわがままどっぷりに嵌っているまさにその現状に気づかないんです。いや気づいていても大したことではないとしているのか、もしくは、はっきりとした認識に至っていないのかもしれません。

 己が愕然とするほどのはっきりした認識にたどり着くと、人は己に立ち止まってその状況を初めて客観的に見れるようになり、そういう反応(ここでは、わがままにふるまう自分)をしてしまう自分を手放せる機会を得ます。しかしまったく己の姿に気づかず、気づいてもはっきりとは気づいていない場合は、そういう反応をしてしまう自分は同じような反応をたびたび繰り返し、その反応(あり方かもしれません)を手放せないようです。

 要は自分を認識出来ず、認識出来ないゆえに正にその認識できない状況そのものを作り出しているということですが、こういう場合に限ってのことだけだとは思えません。病識(自分が病気である認識のこと、精神科疾患で問題になるケースがしばしばあります)がないとケースというのは、こういう思考のサイクルに陥り、その認識にたどりつけないように思われます。

 

 神経症的(神経症という表記は、今では、DSM分類にてもうなされなくなりましたが)な、幼少期的な欲求がまさにそれにあたると思います。神経症的の現れとしての幼少期的な欲求は、それが叶えられるまではその欲求を引き下げることが非常に困難です。例えば、不安で不安で頓服薬をほしがってしまっている場合には、その薬を飲むことがまず先決であって、他のアドバイスや指導は聞き入れがたくなる傾向があります。まず本人とすれば、その薬をもらうことが何よりであり、当然とも思えますが、そこでいろいろ工夫して薬に頼らない方法を身に着ける意味ではいい機会ではあります。前もってそういうことを何度も指導していても、本当の意味でその指導に同意しておらず、自分のやり方でのみ対処するしかないと思ってしまっている場合は、こちらの話が本人には入っていかず、自分のやり方を通してしまいます。実際問題として、こちらが本人が本当に同意できるように指導や訓練することをしていくことが非常に重要ですが、そこまでに至っていないことが多く、やはり本人の訴えに対して本人のやり方での対処するのをこちら側(医療側)は容認するしかないということが多いです。

 ゆえに、この周りからの修正しがたい、アドバイスが通りづらい欲求は、幼少期的な要素が多分にあるように思えます。しかし、こういう自分が引くに引けない欲求を相手に訴えているときは、自分に幼少期的な欲求があるなあと、人は思うでしょうか?

 私もこの文章を書こうと思うまでは、自分が拘(こだわ)って相手に分かってほしいと思っていることがまさか、自分の幼少期的な欲求の入り混じったものだとは思いもしませんでした。最近のことですが、私の勤める病院内で、スタッフがそういうことをすれば、ある患者さんが悪化する可能性がかなりあると私が訴えて続けていたのに、それに対して相手のスタッフはあまり同意されず、相手は相手の判断で、私は私の判断で平行線でお互い譲らず言い争っていたことがあり、私は自分のやり方に強くこだわっていました。それが幼少期的な感情の現れとはなんとなく薄っすらとわかりつつも、はっきりとまでは認識できませんでした。まあ、それ故に勢いがあり、生の自分の感情からの訴えになるのですが。

 幼少期的な欲求や訴え自体が悪いというのでも全くないです。人は一体どういうものに突き動かされているのかということに、自分自身がまったく認識できずに同じことを繰り返してしまうというところが多分にあるのだと思います。それ自体(認識できないこと)がまた悪いわけでもないですが、あまりにも同じことを繰り返していて、周囲とうまくいかないなあというのであれば、それに気づくチャンスになっているのではないかと思う次第です。

ある種の幻覚妄想状態について。

 私は統合失調症の患者さんのいる単科精神科病院に勤めておりますが、幻覚というより著しい妄想状態により退院が困難なケースが少なくないです。

 例えばですが(脚色して書きます)、長期の入院しているある女性患者さんは、「自分は~という男性と結婚式を~のホテルで挙げることになっておりそのために〇月✖日には退院しないといけない」と言い続け、実際そのような相手はおらず、連絡も取っているわけでもないのですが、幻覚の混じった妄想のため本人はそれを本当のことだと信じて退院を要求するということを何度か経験しました。

 本人は同じ訴えを言い続けてこちらは、そういう相手もいないし連絡もとれていないし、退院は今は難しいでしょうとやんわりと返すのですが、「相手がもうそこまで私を迎えに来ている。病院の下で待っている」といって納得しなかった。

 

 自分が退院できないから逆にこういう自分を迎えに来る方が来て退院できるという妄想が出ているとも考えられ、今の環境や状況が妄想を生み出しているとも言えます。

 こういう状況を病気の発症当初から続けてきたのではないかと思われ、もし本人の望みが旨くいかなかったり、絶たれたりするような状況が、妄想を生み出すきっかけになっているとすれば、なるべく本人の望みを叶えてあげればいいのではないかとよく考えます。

 しかし、本人の望む要望が、要望そのものを受け入れるなど、必ず相手が絡む要望であることが本当に多く、やはり親や家族に対する要望と同様のレベルの要望であるようです。このため常にその要望を受け入れたり叶えてあげたり、受け入れるというのがやはり困難であり、本人の望みはその通りにはならず、要望の不可能性ゆえに、それがまた妄想を生み出す元になるという悪循環になり、病気の状態が引き続いていきます。本人の要望を絶えず叶えてあげればいいとも思われますが、本人の身内や親の代わりをするようなものであり、これも現実的に親代わりはできません(本当に親代わりをするとなると自宅に患者さんを引き受けなくてはならないかもしれません)。当然薬も使っていますが、効果は十分ではないことがほとんどで、本人の訴えには否定もあからさまにはできず、難しいなあと頭を抱えながら一緒に問題を共有するしかなさそうです。

 こう考えると病気の発症時期は、要望を表現できるようになり相手との距離がはっきりしてくる思春期以降なのかと思われます。妄想型(妄想>幻覚)の統合失調症に限られると思いますが。本人が自分の欲求や要望に対して周りとの折り合いをつけれなくなり(欲求や要望が具体的な形として表すことができない。具体的に家庭や学校や社会の中で定着させていくことができずに)妄想という表現をとったということなのでしょう。違うタイプの妄想もあり、病気の原因については一括りにはできないところありますので、一面を述べさせていただきました。

初めまして。

 

 初めまして。初めてブログを書くことにしました。 自分の気づいたことがこれまでもいろいろあって、何か書き残してみたいと思ったのがきっかけです。自分の思い付きに過ぎないとは思いますが、書くという表現をしてみて公開してみて自分を客観的に見れればいいと思いますし、また自分の表現が、ほかの人にはどのようにほかの人にはどのように映るのかが気になるところですし、逆に怖いところです。何かしらの気づきにつながればいいなと思っております。

 仕事は精神科の医師(勤務医)をしております。人の気持ちというのが本当の意味で分かっているのかといわれるとクエスチョンマークが多々あります。相手の思いに身を寄せることは多少はやってきたつもりですが、患者さんの話を聞いて、ああそうなのかと自分で思うことはありますが、それが果たして本当に相手の気持ちそのものかというとおそらくは違うことも多いと思います。幾分かでも共有できているのかというと実際は確かめたこともなく、何割かわかったような気になるときもあるし、まったくわからないと思う時もあります。精神科の専門家がみんなそうなのかというと思わるためそういうことはあまりいわないほうがいいのかもしれませんね。このような私ですが、職業柄を反映しているため独自性が出せていいかもしれないとも思ってこの表現に至ったと思います。

 書きのこしたいという自分本位から始めていますが、これからよろしくお願いいたします。

まだブログに慣れていません。すみませんがコメント設定はまだやっていません。